【会津藩物語】第八話 名君正之の登場

 

会津藩物語

第八話 名君正之の登場

 

   芦名氏を倒した伊達政宗から、大藩会津藩をいさぎよく返上してしまった加藤明成に至るまで、五十四年問に、会津に君臨したのは伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明と、いずれも戦国名だたる武将です。蒲生氏郷はキリシタン大名で茶道の造詣が深く、鶴ヶ城麟閣を残した千少庵の庇護者として知られるように、戦国の荒々しい大名である他の三人とは、多少色合いが違うようですが、それにしても歴戦の勇者です。戦国の残像も残って、会津はしばらくの間は風雲のただ中にあったようなものでした。

   寛永二十年五月、嘉明の子加藤明成は会津藩返上を願い出ましたので、幕府はこれを許し、明成に写との子明友に石見国一万石を与えてケリをつけまし曲品た。加藤氏のあと会津に封ぜられたのは保科正之でした。

   正之は慶長十六年、二代将軍秀忠の第三子として生れ、七歳の年に信州高遠城主保科正光の養子となり、風光明びな信州の静かな山の中で少年時代を過したのです。保科氏の菩提寺であった建福寺の名僧鉄舟和尚の下で、儒学を学びました。学問を好んだ名君保科正之にとって、高遠時代の勉強が一生を支配したと見られています。

   寛永八年、養父正光が死去し正之は保科家を相続、翌九年父の将軍秀忠が死に、兄の家光が三代将軍となりました。家光は明敏な正之を頼りとしたために、正之は家光のもとで次第に幕閣に重きをなして行ったのでした。

   寛永十三年、保科正之は高遠三万石から最上二十万石に転封を命ぜられました。最上はいまの山形です。そして寛永十六年には将軍家光から「幕府の政治に加わり、将軍の補佐役となるように」と命ぜられたのです。

   克永二十年、保科正之はさらに三万石を加増され会津に転封を命ぜられました。二十三万石に南山御蔵入や下野の一部を預けられ計二十八万石、徳川御三家に続く一門の大々名となりました。    (第九話へ つづく)

会津藩物語 第八話

 

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