会津藩物語
芦名氏は十代目盛氏の時に全盛期を迎えました。約百年間にわたる会津の戦乱をしずめ、確固たる領主としての地位を築いたのです。会津を平定したばかりか、伊達氏や田村郡の田村氏、常陸の佐竹氏とも戦いました。
盛氏は好戦的な武将と思われがちですが、文化にも深い理解のある殿さまだったようです。居城の黒川城を子の盛興にまかせ、隠居の場所として向羽黒城をつくりました。いまの本郷町の白鳳山です。一説には単なる穏居城ではなく、戦いの際にはここを拠点にできるくらいの守りの固い城だったともいわれています。たしかに山城で東には大川を臨むけわしいところにありました。この城で盛氏は、画僧雪村や多くの画師を招いて絵をたしなんでいたといいます。
そうした平和な日々は長くは続きませんでした盛興が二十六才の若さでなくなり、再び盛氏は総指揮をとりましたが、その盛氏も六十才でなくなると、後継者をめぐって内部紛争がおきました。
芦名家の動揺に乗じて伊達氏や佐竹氏が圧力をかけはじめてきたのです。新当主芦名義広は佐竹氏の出で、当然伊達氏の反発をかい、重臣の間でも佐竹派と伊達派とに分かれる有様でした。
勢力を強めてきた伊達政宗は、ついに会津を攻めることになりました。かつては芦名氏の有力な重臣だった猪苗代盛国が伊達氏に寝返り、天正十七年(一五八九)六月、政宗はなんなく猪苗代城に入城しました。びっくりした義広は、急ぎ猪苗代に向って出陣し、磐梯山のふもと摺上原に本陣をおきました。芦名勢一万六千余騎、伊達勢二万三千余騎。束北の戦国時代に終わりを告げる摺上原の戦いです。
朝六時にはじまった合戦は夕方までには勝負がつき、義広は逃げ足早く、その夜のうちに実家のある常陸へと逃がれていったのです。政宗の会津攻めは政宗の大勝利に終わり、同時に会津の中世も幕をとじたのです。 (第三話へ つづく)
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