会津藩物語
会津の守護であった芦名氏を、摺上原の決戦で打ち破った伊達政宗が、会津の黒川城に入城したのは天正十七年(一五八九)の六月十二日でありました。その日は雨であったといわれていますが決戦に敗れた黒川城は兵火の跡がなおくすぶり、陰々滅々たるものがあったために、政宗は黒川入城を嫌い、城下の名刹興徳寺に入って政庁としました。政宗は荒れ果てた黒川城を捨て置いて修理もしません。山形の米沢を拠点としていた政宗は会津芦名を倒したために、会津を手中にしたのはもちろん、白河に至るまでの中通り地方を支配して、奥羽の王者たるにふさわしい強大な大名となったのです。会津にとどまるのをよしとせず、国境を越え関東南下の野望を秘めていたのではないかと思われます。
しかし天下の形勢は豊臣秀吉の小田原攻めによって大きく変りつつありました。秀吉は政宗が芦名を討ったことに激怒し、また政宗がかねて小田原北条氏と同盟を結んでいたことを知って、政宗に対し小田原参陣を強く求めて来たのです。政宗は秀吉の要請にもかかわらず、ぐずぐずと会津に滞陣して出発しようとしませんでした。
一説では伊達家に内紛があって、政宗毒殺未遂事件が発生し、その収拾に手間どって出発出来なかったのだという話も残っています。政宗が出発したのは、秀吉が行動を開始してからすでに三月もたってからで、しかも政宗は会津を出発して一たん北上して米沢に立ち寄り、さらに越後上州を大回りしてようやく小田原に参陣、その時はもう小田原攻めは終局を迎えていたのです。
遅れに遅れた政宗は秀吉に会うことも許されず申し開きの機会も無いままに北方に追いやられました。ようやくのことで芦名を倒して手に入れた会津も、岩瀬も安積も没収され、黒川にあって天下攻略の構想を練ったのは僅か一年に過ぎませんでした。政宗が去った後会津に入城したのが名将蒲生氏郷であります。 (つづく ※近日公開予定)
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