社長あいさつ

「最良であるか」が、判断の全ての基準です。

お菓子の蔵 太郎庵 店主
目黒 督朗とくお

太郎庵のこだわりの1つは、会津という地域に限定した店の展開にあります。

それは20歳の時に、相馬愛蔵著の「一商人として」という本に出会った事が原点です。本の中では「一人一店主義」という考え方で、間口を広くして奥行の浅い生き方よりも、間口を狭くして奥行を深くする事の方が真に職業に忠実である、と教えて頂きました。

そして、将来お店をもったら、いたずらに形だけの大小にとらわれずに、その質を忘れない、一人一店主義でありたいと思いました。

今、12店舗になっていますが、私は会津という地区に限定した範囲なら、店主としての姿勢を保てるのではと考えています。
いかに大きくなるのかではなく、最良であるかが判断の全ての基準です。

太郎庵のあゆみ

《創業編》

昭和24年(1949年)8月
創業者・目黒 徳一が目の前に小川が流れる裏通りの自宅(会津坂下町)で7坪の工場から 『目黒菓子店』として創業しました。

会津坂下町で13軒あったお菓子屋の中で、13番目に小さなお菓子屋でした。
主にパン・饅頭・生菓子の製造卸をしていました。

徳一は寡黙で真面目な性格で、妻トヨが自転車にお菓子を積み込み冬の雪の深い日も近くの村の商店に売りに回ったそうです。
毎日必死に働きましたが暮らしは楽になりません。

『朝起きたらすでに仕事をしており、寝る前も仕事をしていた。この人たちはいつ寝ているのだろう?』
と息子の目黒 督朗は子供ながらに両親の姿をそう思ったそうです。

ある日のことです。

徳一は、徹夜で作った菓子を配達するために自転車に積み込んだ時のことです。
バランスを崩し自転車が倒れ、荷物ごと目の前の小川に落ちました。

饅頭はすべて水につかってしまい、もちろん売り物になりません。

しかし、徳一は必死に菓子をかき集めました。
もう食べられない菓子でしたが、一心不乱に川に入り必死にそれをかき集めました。
胸いっぱいにかき集めていたそうです。

どんな気持ちだったのか。

《修行編》

長男督朗が高校3年の進路を決める時期、両親に菓子屋になりたいと伝えたときのことです。
喜んでくれると思っていたのですが意外な反応が返ってきました。

『菓子屋なんか恵まれない商売なんかやらないでくれ。生徒会長もやって成績もいいんだから公務員か銀行とかの勤め人になってくれ。』と母のトヨからでした。

そんなとき寡黙な徳一は言いました。
『菓子屋はいいぞ。』

その時菓子屋になる。それも表通りに店のある菓子屋になると誓いました。

1日でも早く表通りに店を出したいと督朗は高校3年の2月の試験休みから卒業を待たずして会津若松の和菓子屋に住み込みで奉公にでました。

配達や饅頭を包むことは子供の頃から手伝っていたので、先輩より早くできていたそうです。
しかし、自分の仕事は来る日も来る日も洗い物。
お菓子にさえも触らせてもらえない辛い日々。
冬の寒い日も、1時間しかお湯の出ない電気温水器でしたので冷たい水で洗い物。

もっと仕事を覚えたいのに。
もっと先輩より仕事ができるのに。
もっと勉強したいのに。

そんなある日、ラジオで大学受験講座を聴きました。
『そうだ!勉強して大学受験しよう。奨学金で何とかなるかもしれない。』
しかし、商業高校を卒業した督朗は一般入試科目の難しさに愕然としました。
さっぱりついていけない。

『自分にはやはりお菓子しかない!』
そう改めて気づきました。

必死で仕事をすればいつか先輩から仕事がもらえるかも知れない。
しかし、洗い物の毎日には変わりはありませんでした。

その頃に勉強したいけれど恵まれなかったという貪欲な精神は
40年以上たった今でも情熱へと変換されていきました。

《東京編》

2年の和菓子屋での奉公期間が終わるのを待ち、東京で勉強したい気持ちが募りました。
お金もなかったですがダメ元で両親に頼み込みます。

『専門学校行かせてくれないか?』
すると半年分の授業料だけ出せる。これで何とかしてくれとのこと。
督朗は半年分の授業料を握りしめ、学べる喜びと共に東京へ旅立ちました。

昼は洋菓子を学び、夜は夜学で和菓子を学びました。
空いている時間は、日払いのいい土木のアルバイト。
忙しい毎日でしたが、彼には希望しかありませんでした。

『いつか坂下の表通りに店をだす。そして両親に楽をさせる。』

大手の菓子工場や団子屋、パン屋など転々と仕事を覚えていきました。
冬になると決まって会津が恋しくなりました。
しかし、磐梯山が『お前みたいな半端モノはまだ帰って来るな』と。
また、心奮い立たせる毎日でした。
ある冬の日のことです。
仕事帰りに餅菓子が食べたくなり2つ買って部屋に戻りました。
やかんで湯を沸かしたとき、その蒸気の音が会津での汽車の音に聞こえたそうです。
故郷会津での思い出の温もりや、残してきた両親のことを思い返しました。
とても懐かしく、やわらかい餅を口に含んだとき、心が温かく幸せな気持ちになりました。

『お菓子ってこんなに人の心を豊かにしてくれるんだ。心に情熱と温もりを伝えるお菓子を作りたい。会津に帰ろう!』

太郎庵のエンブレムはランプです。
そのランプは遠くを照らさないが、足元を照らしてくれます。
ランプの中心には火が灯っています。
そのランプにこの時感じた
『情熱と温もり』の思いが込められています。

《会津からの始まり編》

昭和49年(1974年)4月
会津へ戻ると昔と変わらず貧しいままの目黒菓子店がありました。
父、徳一と母、トヨ。そしてお手伝いのふくちゃん。

買ったばかりの360ccの軽自動車で配達していた時のことです。
ある真冬には会津坂下町の宇内地区の坂で車が滑り横転しながらも村の人に助けられたこともありました。

昭和50年(1975年)3月
屋号を『いも太郎本舗』と改名しました。会津観光銘菓『いも太郎』を発売。
ホテルやドライブイン、駅の売店さんなどで卸販売をさせてもらっていました。

当時を振り返り妻、留美子(現常務)はこう語ります。
『デートするときも会社の近くまで宣伝カーで迎えに来てた。いも太郎のスピーカー鳴らしながら神明通りを来るたびに、同僚から来たんじゃない?と笑われていたの(笑)』

何で店もお金も地位も名誉もない男と結婚したのか?と聞いた事があります。

『あの人には夢があった。会うたび時間がたつのも忘れキラキラと少年のように語り続ける。そのうち私も一緒に夢を見るようになったの。あと自分の両親を大切にしてくれたから。』

そして結婚することになりました。

結婚してからの妻、留美子の仕事は、暇なときに当時2人しかいなかったパートのおばさんに休んでもらう電話をすることでした。

留美子は製造も手伝っており、オーブンで『いも太郎』を焼くのが得意でした。
また結婚前に会計事務所で働いていたこともあり、それまでなかった帳簿を整え決算業務もこなしていました。

《長男誕生》

昭和52年(1977年)9月21日。お彼岸の忙しい時期でした。
待望の長男が誕生しました。
こんな忙しい時期に申し訳ないと思っていたようですが、町の健康優良児として表彰されました。

当時はまだ店がなく、運転免許もなかった留美子は朝の6時前に督朗が運転する車に息子を連れて乗り芦ノ牧温泉へ。そして督朗は東山温泉へと観光客への卸販売をしていました。途中、息子を実家の母に預け、迎えは遅くなる毎日でした。

夜になると芦ノ牧温泉経由で新鶴村から会津坂下町へ戻るという具合です。

腰が悪い祖母でしたが、村の旅行などの誘いも断り、孫が来るからと365日世話をしてくれました。
『じいちゃん踊れ、ばあちゃん歌え、俺太鼓叩くから!』と遊んでいたそうです。

年末年始やお盆など母の実家には姉妹家族が東京などから帰省で集まります。
その時も箱折や配達など親戚家族みんなが総出で手伝ってくれたと言います。

みんな頑張っている二人を応援してくれていたのだと思います。

当時大変でしたね、と言われることが多いのですが督朗は
『奥さんと毎日ドライブ気分で将来の夢を語り合い楽しかったですよ。』
と振り返ります。

『息子が将来大人になったとき、店を継がせてくれと言われるような店を作ろうね。』
などと夢を語っていました。

まだ店もないのに。

夢しかありませんでした。

《太郎庵の誕生》

昭和54年(1979年)1月14日。雪のちらつく初市でした。
会津坂下町の表通りに念願のお店が開店しました。

はじめは断るつもりの物件でした。古ぼけた土蔵の造りでしたが、当時同行してくれたデザインも手掛ける企画キャップの横田新さんに
『ここはお菓子の蔵だ!』とアドバイスいただき『お菓子の蔵 太郎庵』が誕生しました。

雪の降る初市の前日、
督朗は、どこの誰ともわからない店に本当にお客様は来て下さるのか不安でした。
すると留美子はこういいました。

『明日は一人でもいい。私たちが伝えたい志を見てもらえばいいんじゃない?大丈夫。』

開店当日。
たくさんのお客様がいらっしゃって下さいました。
今迄は行かないと売れなかったのに、お客様がわざわざ来て下さる。
ありがとうございます。
そうお客様をお見送りしているとその背中に二人は思わず手を合わせました。

有難い。

『本日開店の心』

太郎庵本社の社長の背面の壁に掛かっている言葉です。