会津藩物語
蒲生氏郷は朝鮮役に出征して帰国してから病いがちとなり、会津を離れ京都の邸宅で療養していましたが文禄四年(一五九五)二月、四十歳の若さで帰らぬ身となりました。
限りあらば吹かねど花は散るものを
心短かき春の山かぜ
というのが氏郷の辞世です。会津若松の興徳寺に遺髪を埋葬した墓があります。
会津のために大きな功績を残した蒲生氏郷の次に、新しい会津城主となったのは風雲児上杉景勝でした。景勝は武田信玄の好敵手であった上杉謙信の養子で、豊臣秀吉に終始協力し北越最大の大名となっていました。
景勝が会津に移った時には、蒲生領に上杉領を加えて百二十万石、豊臣五大老の一人に列席したのです。五大老は徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、そして上杉景勝です。
会津入りした景勝には、大きな野望がありました。京に上ろうとして遂に果たせなかった父謙信以来の天下統一の夢です。景勝には直江兼継をはじめとして岩井信能、安田能元、大石元綱ら有能な部将がついており、上杉謙信以来激戦を戦かい抜いて不敗を誇った上杉六千騎も無傷のまま戦国乱世をくぐり抜けて健在でした。
慶長三年(一五九八)の八月十八日、秀吉が死ぬと家康の力が増大してきました。景勝は石田三成らと結び、次第に家康に対立するようになっていました。
景勝は領内の道路を広げ橋をかけ、百二十万石の財力に物をいわせて武器を買い入れ、浪人を召しかかえました。そうして会津若松の西のはずれ大川に沿う平たん地に、新しい神指城の築城を始めました。神指城は本丸が東西百間二の丸が東西めました。神指城は本丸が東西百間二の丸が東西二百六十問、南北二百九十間という巨大な城でした。動員した人夫は十二万人に達したということですが、事態の急変により築城は中止されました。関ヶ原の戦かいが始まったのです。 (第六話へ つづく)
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