会津藩物語
会津城主加藤嘉明、明成父子の、ことに父嘉明は秀吉摩下の勇将で、踐ヶ岳七本槍の一人とうたわれた人物でした。明成も父の気質を受け継いだ戦国の申し子のような荒々しい人物で、何をやるにも無鉄砲な殿様でした。宽永十六年、明成は弟の明重を総奉行とし、会津はもとより中通りの安積、岩瀬からも人夫千余人を動員して、鶴ヶ城の大改修に着手しました。鶴ヶ城は慶長の大地震で天守閣は傾き、石垣は崩れるという惨状を呈していたのです。
全領内を動員して巨石を集めましたが、とくに鶴ヶ城の東方にある慶山からは一丈余りもある大石を運びました。これが太鼓門の石垣にいまも残る遊女石です。へコたれる人夫に元気をつけるために、みめうるわしい遊女を石の上に座らせ、かけ声も高らかに城内に運び込んだのでした。慶山の石切り場に、いまも奮闘の跡がまざまざと残っています。寛永十六年の六月二十三日、明成は太鼓門の上棟式を行ない、赤飯を炊いて祝ったと記録されています。
父子二代にわたって大改修をほどこされた鶴ケ城は、慶長大地震の被害も見事に修覆して、見違えるように美しくなりました。美しくなっただけでなく、難攻不落の名城とうたわれるようになりました。北出丸に新設された桝形は、皆殺し丸ともいわれ、正面から攻め込んだ敵がここへ迷い込めば、四方八方から弾丸を打ち込まれ、生きては帰れぬ恐ろしい城でした。
加藤父子は鶴ヶ城の修覆のほか、背あぶり山の難路を往復していた江戸街道を、滝沢に移すなど大工事を敢行したために、藩内はひへいし、二代つかえたすぐれた家臣が、一族ごっそり逃散したり、一村ことごとく出奔するなどの事件が続出し明成は遂に会津藩を返上してしまいました。
四十万石の大藩を返上するなんて前代未聞の出来ごとでよほど短気なお殿様だったのでしょう。家臣も藩内もひどい目に会いました。 (第八話へ つづく)
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