石巻と女川視察
今日は
宮城県石巻市と女川町に行ってきました。
明治維新が起きたとき
その前に
浦賀に黒船が来ました。
その時
黒船を見た坂本龍馬さんは
日本を変えなければ
欧米列強の植民地になると感じました。
黒船を見なかった人は
彼をアホ扱いしました。
黒船を見た人の中でも
大変なことが起こったとしか感じず
何もしなかった人も多くいます。
今回の津波は
あの黒船みたいなものだと思います。
会津も
放射能の風評被害や被災者の受け入れが続きます。
しかし、
生活はさほど変わらず戻ったように見えますが
観光経済の崩壊で厳しいのは変わりないです。
農業への風評被害も深刻です。
この危機管理意識をみんなに伝える役割が僕にはあると思ってます。
そこで
津波被害の爪痕深く残る
宮城県石巻市、女川町へ行ってきました。
東北道から三陸道へ抜け
石巻へ。
インター付近はさほどではないのですが
海側へ行くほど店も閉まっています。
道路は渋滞。
いたるところに
瓦礫や土砂、ゴミなどが積み上げられてます。
女川町へ続くトンネルを抜ければ
さらなる瓦礫の山が
道路脇に積み上げられてます。
風の匂いも悲惨さを感じます。
自衛隊の車両を至るところで見かけます。
道路にあった瓦礫を積み上げるのだけでも大変な作業だったかと思います。
同じ石巻市でも地形によって被害が少なかった地域もありました。
沿岸を中心に東日本全域がそうなのだと思います。
車がひっくり返り、潰れた家屋が押し流されガソリンスタンドの柱で止まってました。
女川町へ抜ける山道を下りました。
そこは
どこかの国の空爆を受けた後の光景と同じでした。
壊滅とはこのことでした。
この東北三陸海岸にはいくつもの
入江からなる港町があります。
津波も入江に集約され一段と強度を増したのかと思われます。
女川町もその入江からなる町でした。
そこら中に瓦礫と埃が舞い散る状態でした。
言葉は何も言えません。
がんばりようにも
家も町も家族も失い、
ただ思いを馳せることしかできませんでした。
短期的にみれば
炊き出しなどの物資やボランティアは必要です。
ただ今回はかなりの長期戦になるのは必至です。
中期的にみれば
沿岸部の復興に集中すれば
早くて三年でだいぶ復興してくるんじゃないかと
個人的に思いました。
長期的に見ると
一番深刻なのが福島県になると思います。
沿岸部支援は
各県でできても
放射能の風評が深刻です。
東北の玄関口である福島県。
東北全域に
観光などへの影響が懸念されます。
福島県を中心とした農作物や水産物への風評被害は
長期間します。
放射能の会津への被害は少なかったにしても
同じ福島県のイメージはぬぐえません。
イメージを払拭できることを
ひとつひとつ
やらねばなりません。
石巻のある避難所では
ある札をつけた
ちびっこボランティアがいるそうです。
何してるのかと聞くと
『あいさつボランティア』
と言っていたそうです(^O^)
いろんな人に
あいさつしまくってました。
ちびっこも踏み出してます。
大人が変わらねば
彼女たちを守れません。
踏み出した一歩が
二歩目につながる。
尊敬する
てんつくマンが言ってました。
『微力は無力じゃない』
『動けば変わる』










